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9. 「民衆の幸福」それが一番❣️【立正安国論】 幸福と平和の ために宗教はある【教学】


立正安国論
幸福と平和の
ために宗教はある

日蓮大聖人の行動が、ただ民衆の幸福のために、という一点から出発していることが、先のブログでも分かってきました。

「民衆の幸福」、それが大聖人の思想と行動の根本の基準です

当時、毎年のように異常気象が起こり、飢饉、火災、流行病が続発していました。

特に正嘉元年(1257年)に鎌倉を襲った大地震は、人々に大きな苦悩をもたらしました。

この大地震に典型的に見られる一切の不幸、その根本原因はどこにあるのか。

大聖人は、その原因を究明し、駿河国(今の静岡県)の寺で、そこに収蔵されていたあらゆる経典を読み、「立正安国論」をまとめられます。

また、この時、のちに大聖人の仏法を継承された日興上人が弟子となります。

さて「立正安国論」では、どのような主張をされたのか。

大聖人は、不幸の根本原因は、人々が邪法を信じていることにあると主張されました。

とりわけ、念仏を根本の「一凶」と断じ、念仏への布施をやめなければ、経文に照らして、内乱と他国からの侵略が起きることは間違いないと警告されたのです。

戦乱で一番、苦しむのは、いつの時代も庶民です。

だからこそ、為政者自身の意識の変革が大事になるのです。

民衆の幸福を最優先に考えるならば、為政者は今、何を為すべきなのかと、大聖人は時の実質的な最高権力者・北条時頼に「立正安国論」を提出されました(文応元年1260年7月16日)。

「立正安国」とは、具体的にどういう意味でしょう。

立正安国とは、正法を人々が信仰することによって(立正)、国(社会)の平和・繁栄が実現されること(安国)をいいます。
言い換えれば、一人ひとりが生命を変革し、「人間尊敬」「生命尊厳」の思想を、社会に広げていくことが「立正」ということです。

それで幕府は、どうしたのか。

幕府要人は、大聖人の諫めを無視。

大聖人の破折を快く思わない念仏者達は迫害を加えて来ます。

大勢で、松葉ヶ谷の大聖人の草庵を襲撃し、命を狙いました。
(松葉ヶ谷の法難=文応元年1260年8月27日)。

この時、幸い、大聖人は難を逃れられます。

大聖人が、鎌倉へ戻られると、今度は幕府に捕えられ、伊豆の伊東へ流罪されます。(伊豆流罪=弘長元年1261年5月12日〜)。

二年後、流罪を許され、鎌倉へ戻られたあと、大聖人は、安房方面へ病気になられた母親の見舞いに赴かれるのですが、今度は東条景信の軍勢に襲撃されます。

この時の襲撃は特に激しく、大聖人をお守りした門下が討ち死にし、大聖人も左手を折られ、額に傷を負われました。(小松原の法難=文永元年1264年11月11日)。

こうした迫害の連続は、大聖人が民衆救済という信念のまま権威・権力の魔性と戦い抜かれたことを物語っています。

迫害に次ぐ迫害の様相は、御書に「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし」とある通りです。

隣の中国に目をやると、蒙古が大帝国を築いていました。

そして、文永五年1268年、蒙古から国書が鎌倉に届きます。

「立正安国論」で警告された他国からの侵略が、いよいよ現実味を帯びてきたのです。

そこで大聖人は、まず幕府関係者に書状を送り、悪法への帰依をやめるよう諫められました。

さらに、幕府要人や権勢を誇る鎌倉の大寺院の僧に書状を送り、公の場での法論(公場対決)を呼びかけました。

大聖人は、非道な宗教者、権力者にも一貫して「道理」に基づいて言論によって戦われます。

この時、幕府も他宗も誠意ある反応を示しませんでした。

権力は往々にして正論を否定します。

この時期、幕府と結びついて大きな影響力を持っていたのが極楽寺良観です。

文永八年1271年、祈雨の勝負で大聖人に破れた良観は、大聖人への恨みを募らせ、幕府要人やその夫人に働きかけ、弾圧を企てていたのです。

そして、同年9月10日、大聖人は幕府の軍事・警察機関(侍所)の次官(所司)平左衛門尉頼綱から尋問されます。

この時も、大聖人は仏法の法理のうえから、社会に安心をもたらす指導者のあるべき姿を説き、諫められたのです。この2日後に、大聖人に処刑の危機が迫ります。


立正安国論
幸福と平和の
ために宗教はある