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例え小さな光であれ、心に光が有れば、闇は消える。

13. 人間を強く、賢くする信心❣️「客観的」「現実的」に宗教を選択【教学】

  【宗教を考える基準】
宗教は、人間の幸・不幸を左右します。

正しい宗教を選び取るためには、さまざまな宗教を比較し、考える「基準」が必要となります。

ここでは、「三証」「五重の相対」を取り上げ、大聖人の仏法こそ、人類の求めている真の力ある宗教であることを学びます。


 【三証】文証・理証・現証
「客観的」「現実的」に
宗教を選択
ここでは、宗教を考える基準の第一として「三証」を学びます

日本には、本当にいろいろな宗教があります。私の知人も、「あまりにも多くの神様、仏様がいて、何を基準に考えたらよいか、分からない」と言ってます

この知人に仏法を語る時に、何か、宗教の優劣を判定する客観的な物差しはないかと考えます

実際には、さまざまな宗教があります。私たちの立場で言えば、例えば「自他とも幸福を目指していく宗教」「人間の境涯を高めていく宗教」「社会の変革と繁栄、世界の平和を追求する宗教」が大切だと言えると思います。さて、ここでは、宗教の優劣を判断する物差しとなる「三証」について学びましよう。三証とは「文証」「理証」「現証」の三つをいいます。

「証」とは、あかし、証拠の事です。

まず「文証」とは、文献のことです。

「文証」とは、その宗教の教義や主張の内容に、依って立つ文献の裏付けがあるかどうか、ということです。

日蓮大聖人の時代で言えば、経典に基づいた教えなのかどうか、ということです。

仏教であるなら、釈尊の教えに依って立つものでなければなりません。

大聖人は「経文に明(あきらか)ならんを用(もち)いよ文証無からんをば捨てよとなり」と仰せです。
通解
経文上に明確な根拠のある教義を用いるべきであり、経典によらない教えを用いてはならない

次に「理証」ですが、これは教義や主張が道理にかなっているかどうかという基準です。

大聖人は「仏法と申すは道理なり」と仰せです。

仏法に限らず、全ての宗教が、道理を通さないといけないはずです。

日本には、私たちから見ても荒唐無稽な教えが多いです。
(荒唐無稽=こうとうむけい 根拠がなく、現実性が無い事)

仏法は最高の道理です。

道理に外れた主張は用いるべきではありません。

そして、宗教を実践して現実に結果が出るかどうかを見る基準、それが最後の「現証」です。

御書には「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」とあります。
通解
 日蓮が仏法の優劣を判断するのに、道理と証文とに過ぎるものはない。さらに道理・証文よりも現証に勝まさるものはない

ここで、「道理」が理証、「証文」が文証になります。

この御文から分かる通り、大聖人が最も重視されたのが、現証です。

いかなる宗教にせよ、教え通りの結果が出て、自分の前に立ちはだかる現実を変えられなければ、意味がありません。

現証とは、現実に生活や社会に結果が出るかどうかです。

単なる気休めだったり、現実社会から逃避を教える宗教では、人間を強く、賢くする方向と逆行するのではないでしょうか。

一人ひとりが偉大な可能性を発揮していけると説く日蓮仏法は、仏法を実践することで、勝利と向上の結果を勝ちとっていける宗教なのです。

この三証の一つがかけても、正しい宗教とは言えないのです。

薬で言えば、肝心なのは、それが今の自分のかかっている病気に効くかどうかです(現証)。適切な薬でなければ、むしろ「毒」になってしまいます。

そして、この場合、薬には成分表、効能書きがあり(文証)、また、どうして効いたのか、
その確かな理由があります(理証)。

三証は、宗教を科学的な眼で判定しているのです。

曇り無い眼、冷静な眼で、宗教は見ていかなくてはなりません

御本尊に唱題し、友人に仏法を語っていく。その実践があれば、現実の生活に、宗教の力が厳然と現れてくる。そこに、日蓮仏法の素晴らしさはあるのです

 【三証】文証・理証・現証
「客観的」「現実的」に宗教を選択
ここでは、宗教を考える基準の第一として「三証」を学びます。