幸せを、あなたにさずけます❣️

例え小さな光であれ、心に光が有れば、闇は消える。

15. 自分も友も幸せに❣️ 【自他共の幸福】「仏」とは、一体なんなのか?【教学】


【五重の相対】
②大小相対
【自他共の幸福】

自分も友も幸せを
目指す為の仏法

これまで、私たちに「仏の生命」があり、御本尊への唱題で、その生命を引き出して行けると教わってきました。

しかし、改めて考えてみると、「仏」とは一体、何なのでしょう。

人間からかけ離れた存在なんでしょうか?

いいえ。前にも確認したとおり、仏は私たちと同じ人間です。

仏とは、宇宙と生命を貫く根源の真理を体得した人間です。

すなわち、究極の真理を悟って実践する人のことです。
そして仏教の創始者が、釈尊です。

ところが、釈尊が死んでからの仏教は、仏を尊ぶあまり、釈尊を人間からかけ離れた存在にしてしまいました。

そして、仏と成って人々を救うことを、出家者たちはあきらめてしまいます。

修行の道場にこもり、民衆から遠ざかっていきます。

仏の声を聞いて悟りの境涯を開こうとする「声聞」、独力で悟ってく「縁覚」を目指して、出家者たちは、複雑で繁多な戒律を定めて行ったのです。

それでは、現実の社会で生活する人々は、どうなったのでしょう。

そこが問題です。
出家者たちは、自分が悟るために修行に専念し、在家の人々は、出家者を支える存在であると強調され、仏教が僧院の中に閉じこもる傾向が強くなってしまったのです。

それは「万人の救済」という釈尊の精神とは正反対なのです。

そうした中から、「釈尊に帰れ」とする、仏教ルネサンスの運動が興ります。

これが、大乗仏教です。
万人を平等に成仏させる仏の教えを、民衆の手に取り戻そうとしたのです。

真の大乗の実践者たちは、果敢に、民衆のなかに飛び込んでいきます。

自らが仏の境涯を開こうと修行し、人々をも成仏させる「菩薩」の生き方を、目指しました。

大乗の「乗」とは、「のる」「乗せる」という意味で、仏の教えが人々を幸福に導く事を「乗り物」に譬えたものです。

これに対して従来の声聞・縁覚の教えを、大乗仏教の側から「小乗」と呼びました。

この大乗教と小乗教を比較して、大乗教が優れている事を示したのが「大小相対」です。
「五重の相対」の二番目の基準です。

乗り物の譬えは分かりやすいですね。

日蓮大聖人は「船」にも譬えられ、「小乗経と申す経は世間の小船のごとく・わづかに人の二人・三人等は乗すけれども百千人は乗せず・・・大乗と申すは大船なり」と仰せです。

日蓮仏法こそ、究極の大乗であり、全人類を乗せる「大船」です。

大乗と小乗では、修行の意味合いも全く違うのでしょうか。

苦しみや迷いの原因は、「煩悩」(貪り・怒り・愚かの生命)という心の働きです。

そして、その煩悩を克服することに仏教の特徴があります。

小乗教は、煩悩を断じ尽くしていくことで、悟りを得ようとする教義です。

しかし、人間から煩悩のすべてをなくすことは難しいと思います。

人間の生命そのものを消滅させなければならなくなる。

それに対し、大乗教は、小乗教のように煩悩を排除するのではなく、正しくコントロールすることを説きました。

清浄で力強い生命主体(仏界)を確立することで、煩悩を「菩提」という悟りの智慧へと転換することを目指します。

これを「煩悩即菩提」といいます。

私たちの実践で言えば、煩悩に真っ向から取り組み、妙法への信心によって、煩悩を自身の成長の因に変え、偉大な智慧を身に現して行く事です。

小乗教は、確かに、煩悩が人間の苦悩の原因である事に注文した点では、自身の変革への第一歩でした。

しかし、欲望を消滅させる修行に専念し、そのため現実世界から逃避する結果になった事は大きな誤りです。

小乗教は「自分だけの幸福」を追い求めて行く傾向が強くなるという事です。

今の社会全体も、「自分さえ良ければ」という風潮が広がり、人々への思いやりや真心が、失われていく一方です。

現実社会に積極的に関わり、悩み苦しむ人々を幸せに導く事が、本来の仏教の精神です。

そして、自分も他人も、共に幸福になろうとする真の大乗菩薩の実践を貫いてこその人生。

「万人の幸福を目指す」
その生き方を広げていくことが、「自分さえ良ければ」というエゴ、利己主義の風潮を打ち破り、社会の希望の行動となるの
です。

【五重の相対】

②大小相対
【自他共の幸福】

自分も友も幸せを
目指す為の仏法