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例え小さな光であれ、心に光が有れば、闇は消える。

4. 最高の境涯が側に有る❣️【六道】より「人間らしい生き方」 を目指して【教学】


「六道」より
「人間らしい生き方」を目指して

今回は、まず、「十界論」の説明を簡単にしておきましょう。

仏法の生命観の基本になります。

日蓮大聖人の仏法における「十界論」とは、私たちが現実のありのままの身に仏界を涌現した時に、どれだけ偉大な境涯変革を可能にするかを教えています。

また、十界の法理を学ぶことによって、生命の境涯を的確にとらえ、各人がそれぞれの生命境涯を変革していく指針を得ることができます。

私たちの瞬間瞬間の生命の「境涯」が十種類あることを説いたものです。

境涯とは、その人の心と力のおよぶ範囲のことです。

いわば、自分の生命空間の「さかい」を、どんどん広げていくことが仏法の目的です。

境涯が違えば、同じ現象を見ても、とらえ方、考え方が異なります。

例えば、美しい風景を見ても、自分が苦悩の淵に沈んでいれば、何も感じません。

反対に、この感動を人に伝えていこうと思える人もいます。

境涯を豊かにして、広げていく。
そのことで、何ものにも左右されない確固たる自分自身を築いていくことができます。

そのための信仰であり、宗教です。

「境涯」「心」は不可思議の力をもっています。

その人の生命を一新させ、人生観・社会観・生命観・宇宙観等を変えるのはもちろん、感受性を豊かにし、新しい自分をもたらす、その力を引き出すのが良き宗教です。

十界論では、そうした生命境涯が、十種類あると教えているのです。

仏法では、すべての人に共通する生命の境涯として、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の十の生命を説きます。

このうち、最高の境涯となるのが「仏界」です。

日蓮大聖人の仏法の「十界論」は、この「仏界」が誰にもあり、どんな時でも、それを開いていけることを教えています。

まず、最初の六つについて日蓮大聖人は、こう述べておられます。

「ある時は喜び、ある時は瞋り、ある時は平らかに、あの時は貪りの姿を現じ、ある時は癡を現じ、あの時は諂曲である。瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡は畜生、諂曲なのは修羅、喜ぶは天、平らかなのは人界である」

通解を交えながら、順番に見ていきましょう。

まず、「地獄界」(じごくかい)です。地の底の牢獄に入っているような、苦しみに縛られた最低の生命境涯です。「瞋り」(いかり)とは、やり場のない恨みの心です。どうすることもできない生命のうめき声が自分自身に向けられ、苦悩が永遠に続くように感じる「不自由」そのものの生命と言えます。

「餓鬼界」(がきかい)は、満たされることを知らず、欲望を追い続けている生命境涯です。「貪り」(むさぼり)とあるように、際限のない欲望に振り回され、欲望の奴隷になった苦しみが餓鬼界です。

「畜生界」は、目先の利害にとらわれ、正邪の判断がつかず、物事の道理に暗い苦悩の境涯です。結局は、破滅に至るゆえに「癡」(おろか)なのです。

自分と他人とを比べて、自分のほうが勝れていると思い込む慢心が「修羅界」です。「諂曲」(てんごく)とは、「心がへつらい、曲がって」いることです。自分も他人も、ありのままに正しく見ることができない生命境涯です。

ここまでの四つは、いずれも苦しみがつきまとい、あまり感じたくない境涯です。

そこから、向上しようとした第一歩が「人界」です。大聖人が「平らか」(たいらか)と仰せのように、穏やかで平静な、「人間らしい」境涯です。しかし、常に向上心がないと、この「人界」にとどまることはできません。

さらに「天界」は、欲求が満たされた時の喜びの境涯です。欲望には、本能的欲望や、社会的欲望、そして知的欲求などの精神的欲望など、さまざまあります。しかし、時が過ぎれば喜びは薄れていくように、この「天界」で感じる喜びは長続きしません。たちまち他の境涯に移り変わってしまうのです。

この地獄界から天界までの六つの境涯を「六道」といいます。

私たちの日常生活の大半は、この六道の境涯を繰り返しているといえます。

この六道に共通するのは、すべて自分の外の条件や環境に左右されているということです。

しかし、この日常生活を離れて幸福はありません。

この六道の苦悩の生活を、そのまま未来の希望へと転ずるのが仏法の力です。


「六道」より
「人間らしい生き方」を目指して