6.心とは、生命そのもの❣️【十界互具】 現実の中で 価値創造の人生を【教学】
【十界互具】
現実の中で
価値創造の人生を
これまで、十界の各界について学びました。
どんな人の生命にも仏界があり、その仏界を顕していけるという十界論の考え方は、素晴らしい、と思います。
十界論は、仏法の基本です。
十界を一つ一つ学んで来た結果、仏界以外の九界は、かえって価値を見いだせないように感じてしまいます。
六道をぐるぐる繰り返すのも嫌だし、かといって二乗にもなりたくないし、菩薩といっても立派すぎて遠くに感じます。
だからといって、九界を否定したら、現実世界から離れてしまいます。
「九界にいながらにして、仏界を根本に、九界という現実を変革していく」考え方を説くのが法華経です。その前提となるのが「十界互具」の法理です。
この法理は、真理の全体像が示された法華経だけに見られる考え方で、法華経以外の経典には、まったく見られないのです。
互具(ごぐ)とは「互(たが)いに具(ぐ)す」との意味です。すなわち、十界のそれぞれに十界が具わっていることをいいます。
大聖人は「十界互具と申す事は十界の内に一界に余(よ)の九界を具し十界互に具すれば百法界なり」と仰せです。
十界それぞれに他の九界が具す、というのは難しいですね。
実は、すでにこれまで学んできたことで。例えば人界の生命も、次の瞬間に、他の九界の生命のどれかを涌現する可能性をもっています。とりわけ、私たち迷いの人間でも、だれもが、仏界を涌現できる可能性があります。このことが「十界互具」です。
そして、十界互具の最大の焦点は、九界のどんな人々の境涯にも仏界がある、ということです。例えば人を見下して、怒りをぶつけている人がいれば、その人の生命境涯は修羅界です。しかし、怒りには「悪への怒り」もあります。
人々を苦しめる権力者に対して怒りをぶつければ、それは大勢の人を守るための怒りとなります。
仏界を根本として境涯が変われば、怒りの意味も変わるということです。 欲望も、私たちを苦しめる欲望がある一方で、仏が全民衆を救いきろうと願うのは、ある意味では仏の次元の欲望とも言えます。
それぞれの九界の生命の状態にあっても、仏界を根本にしたときに、九界が九界のままで、価値を生み出す方向へと働きだすのです。
こうなると、少し九界の捉え方が今までと変わってきます。
九界とは、これまで見て来たように、私たち凡夫が生きる「現実」の世界です。
その現実を離れた成仏とは、観念であり、現実味の無い虚構(きよこう)にならざるをえません。
九界を全面否定して仏界に行くというのは、現実生活を離れることに等しいのです。そんな仏になるなら、結局は、現実逃避になってしまいます。
日蓮大聖人の仏法で説く「仏」は違います。仏は常に現実世界の中で、民衆を救済するために行動するのです。覚りの世界に安住して、戦わない観念的な仏など、決して真の仏ではありません。
成仏とは、仏界を涌現して、現実の九界を生きる中にあるのです。
つまり、どこまでも、現実生活を重視する生き方が、大事だということです。
仏界を涌現して、九界という「現実」を、より良く変えていく。
そのための私たちの信仰なのです。
【十界互具】
現実の中で
価値創造の人生を