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10. 全人類のために、命をかける❣️【佐渡流罪】 末法の全民衆を救う 御本仏と宣言【教学】

佐渡流罪
末法の全民衆を救う
御本仏と宣言


日蓮大聖人に処刑の危機が迫る」、とは具体的に何でしょう。


文永八年(1271年9月12日)の夕刻、平左衛門尉が武装した兵士を率いて、松葉ヶ谷の草庵を襲い、謀反人を扱うようにして、大聖人を捕らえました。

その時、大聖人は、平左衛門尉に向かって、日本の柱である大聖人を迫害するならば、内乱と他国からの侵略が起こると強く諫めたのです。

「正義の人」を弾圧する国は、人々の生命が濁り、災難が起こるからです。

大聖人は、夜半に鎌倉のはずれにある竜の口の刑場に連行されました。

しかし、刑が執行されようとした、まさにその時、突然、江ノ島の方から、まり、のような光り物が北西の方向へ夜空を走ったのです。(ハレー彗星では、無かったのかと。現代では討論されています)

兵士たちは恐れおののき、大聖人を斬首する事は出来ませんでした。(竜の口の法難)。

この時以来、大聖人は、末法の御本仏としての御立場に立たれていくのです「発迹顕本」(ほっしゃくけんぽん)

末法のあらゆる人々を救う仏の御境涯を明かされた、ということです。

大聖人を処刑できなかった幕府は、結局、佐渡流罪の処分に決定します。

当時、佐渡に流されるということは、生きて帰ることできない、つまり死罪に等しい意味をもっていたと聞きました。
佐渡の塚原に着かれた大聖人は、食べる物も不自由で、真冬に雪が吹き込んでくるような、荒れ果てた三昧堂に住んだのです。

そのうえ、佐渡の念仏者に絶えず命を狙われる状況にありました。

この時、幸いにも日興上人が大聖人の身の回りお世話をされ、ともに苦難と闘われます。

文永九年(1272年)一月には、佐渡だけではなく、北陸・信越等からも僧が大勢、集まり、大聖人に仏法の論争を挑んできました。

大聖人は各宗派の邪義をすべて明確に論破されました。(熱原問答)。

大聖人の流罪中は、鎌倉の門下にも迫害が及びます。

土牢に入れられたり、追放、所領没収などの処分を受けた門下が続出しました。

そうした弾圧のすさまじさを恐れて、大聖人の法門に疑いを起こし退転する門下が相次いだのです。

大聖人は、御自身の身の危ない状況にあるにもかかわらず、門下のことを案じ、末法万年の全人類を救うために行動されます

いかなる権力の弾圧も、大聖人の民衆救済の誓願の炎を消すことはできなかったのです。

日蓮大聖人は、末法の御本仏として、あらゆる人の成仏を可能にするために、御本尊を御図顕(ごずけん)されます。

そして、「開目抄」「観心本尊抄」という最重要の著作を記されます。


「開目抄」では、難が起ころうと、諸天善神の加護がなかろうと、妙法を弘めるために身命をなげうつという大聖人御自身の覚悟が述べられ、一層深い信心に立つよう門下に促されるとともに、大聖人が末法の御本仏であられることを宣言されます。

また、「観心本尊抄」では、南無妙法蓮華経の御本尊を「受持」する事で末法の人々が成仏できることを明らかにされたのです。

最悪の環境の中で、人類の幸福と平和の軌道を確立されたのです。

文永九年(1272年)二月、幕府では、「二月騒動」が勃発します。

鎌倉幕府の中心者・北条時宗の異母兄である北条時輔が謀反を計画したとして、時輔以下関係者が処刑される事件です。北条氏一族の同士討ちです。

大聖人が警告されていた「内乱」です。

幕府は、大聖人の存在を無視することができなくなり、執権・時宗は、大聖人の流罪を許す決定を下しました。
文永十一年(1274年)二月の事です。

鎌倉に戻られて、その年の四月八日、大聖人は再び平左衛門尉に対面され、年内に必ず蒙古が襲来する事を警告されました。

しかし、幕府の権力者は、大聖人の諫言を聞き入れず、悪法への帰依をやめようとしませんでした。

「立宗安国論」での諫め、そして平左衛門尉への二度の警告が用いられなかったために、大聖人は甲斐国山梨県)の身延山に入ります。

そして、その年の十月、蒙古の大軍が九州に押し寄せて来ました。「文永の役」と言って、有名な出来事です。

これで、大聖人の警告は二つとも的中した事になります。

社会の平和と民衆の幸福のために、迫り来る災難を警告された大聖人の仏法の正しさを、予言の的中は示しているのです。