幸せを、あなたにさずけます❣️

例え小さな光であれ、心に光が有れば、闇は消える。

9. 「民衆の幸福」それが一番❣️【立正安国論】 幸福と平和の ために宗教はある【教学】


立正安国論
幸福と平和の
ために宗教はある

日蓮大聖人の行動が、ただ民衆の幸福のために、という一点から出発していることが、先のブログでも分かってきました。

「民衆の幸福」、それが大聖人の思想と行動の根本の基準です

当時、毎年のように異常気象が起こり、飢饉、火災、流行病が続発していました。

特に正嘉元年(1257年)に鎌倉を襲った大地震は、人々に大きな苦悩をもたらしました。

この大地震に典型的に見られる一切の不幸、その根本原因はどこにあるのか。

大聖人は、その原因を究明し、駿河国(今の静岡県)の寺で、そこに収蔵されていたあらゆる経典を読み、「立正安国論」をまとめられます。

また、この時、のちに大聖人の仏法を継承された日興上人が弟子となります。

さて「立正安国論」では、どのような主張をされたのか。

大聖人は、不幸の根本原因は、人々が邪法を信じていることにあると主張されました。

とりわけ、念仏を根本の「一凶」と断じ、念仏への布施をやめなければ、経文に照らして、内乱と他国からの侵略が起きることは間違いないと警告されたのです。

戦乱で一番、苦しむのは、いつの時代も庶民です。

だからこそ、為政者自身の意識の変革が大事になるのです。

民衆の幸福を最優先に考えるならば、為政者は今、何を為すべきなのかと、大聖人は時の実質的な最高権力者・北条時頼に「立正安国論」を提出されました(文応元年1260年7月16日)。

「立正安国」とは、具体的にどういう意味でしょう。

立正安国とは、正法を人々が信仰することによって(立正)、国(社会)の平和・繁栄が実現されること(安国)をいいます。
言い換えれば、一人ひとりが生命を変革し、「人間尊敬」「生命尊厳」の思想を、社会に広げていくことが「立正」ということです。

それで幕府は、どうしたのか。

幕府要人は、大聖人の諫めを無視。

大聖人の破折を快く思わない念仏者達は迫害を加えて来ます。

大勢で、松葉ヶ谷の大聖人の草庵を襲撃し、命を狙いました。
(松葉ヶ谷の法難=文応元年1260年8月27日)。

この時、幸い、大聖人は難を逃れられます。

大聖人が、鎌倉へ戻られると、今度は幕府に捕えられ、伊豆の伊東へ流罪されます。(伊豆流罪=弘長元年1261年5月12日〜)。

二年後、流罪を許され、鎌倉へ戻られたあと、大聖人は、安房方面へ病気になられた母親の見舞いに赴かれるのですが、今度は東条景信の軍勢に襲撃されます。

この時の襲撃は特に激しく、大聖人をお守りした門下が討ち死にし、大聖人も左手を折られ、額に傷を負われました。(小松原の法難=文永元年1264年11月11日)。

こうした迫害の連続は、大聖人が民衆救済という信念のまま権威・権力の魔性と戦い抜かれたことを物語っています。

迫害に次ぐ迫害の様相は、御書に「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし」とある通りです。

隣の中国に目をやると、蒙古が大帝国を築いていました。

そして、文永五年1268年、蒙古から国書が鎌倉に届きます。

「立正安国論」で警告された他国からの侵略が、いよいよ現実味を帯びてきたのです。

そこで大聖人は、まず幕府関係者に書状を送り、悪法への帰依をやめるよう諫められました。

さらに、幕府要人や権勢を誇る鎌倉の大寺院の僧に書状を送り、公の場での法論(公場対決)を呼びかけました。

大聖人は、非道な宗教者、権力者にも一貫して「道理」に基づいて言論によって戦われます。

この時、幕府も他宗も誠意ある反応を示しませんでした。

権力は往々にして正論を否定します。

この時期、幕府と結びついて大きな影響力を持っていたのが極楽寺良観です。

文永八年1271年、祈雨の勝負で大聖人に破れた良観は、大聖人への恨みを募らせ、幕府要人やその夫人に働きかけ、弾圧を企てていたのです。

そして、同年9月10日、大聖人は幕府の軍事・警察機関(侍所)の次官(所司)平左衛門尉頼綱から尋問されます。

この時も、大聖人は仏法の法理のうえから、社会に安心をもたらす指導者のあるべき姿を説き、諫められたのです。この2日後に、大聖人に処刑の危機が迫ります。


立正安国論
幸福と平和の
ために宗教はある

8. 「慈愛」を形に、出来る大聖人❣️【立宗宣言】 全人類を救済する 誓願の第一声 【教学】


日蓮大聖人の御生涯
それは、全人類を幸福にするため、すべての人々に仏の境涯を開かせたいとの誓願と慈悲に貫かれています。そして、民衆の幸福を阻む一切の魔性と闘い続けられた大難の御生涯でもありました。


【立宗宣言】

全人類を救済する  
誓願の第一声

大聖人の一生、
それは若き日の「誓願」を、いかなる大難があっても貫き通された生涯です。

あらゆる人々を救済するという誓願に立って、南無妙法蓮華経の正法を説き、弘めて行かれたのです。

ひとたび、正法流布に立ち上がれば、迫害が、次々と押し寄せてくることは、経文に照らして明らかでした。
しかし、それでも、正法の旗を高々と掲げ、立ち上がれた。

一人ひとりに尊極の仏界の生命を開かせ、平和な社会を築きたいという「大慈悲」の挑戦だったのです。

大聖人が生きていた時代は、仏教の新興勢力が乱立していた時代です。

念仏や禅が広く信仰されていた時代です。
念仏をはじめとする当時の諸宗の僧は、釈尊の教えを真剣に探究せず、民衆を蔑視(べつし)していました。

人間を不幸にする、そうした「魔性」とは徹して闘い、正しい信仰によって人間の偉大な可能性を開発していこうとされたのが日蓮大聖人なのです。

時代は鎌倉時代でした。
日本で初めて武家政権が誕生し、大動乱の時代がはじまるのです。

大聖人は、貞応元年1222年2月16日、安房国(今の千葉県)の東条郷の方海の漁村で誕生されます。
家族は漁業で生計を立てていました。
12歳で、その地にある清澄寺に入り、初等教育を受けられます。
そのころ、「日本第一の智者となし給へ」との願いを立てられます。父母らをはじめとする民衆を救うために、生死の根本的な苦しみを乗り越える仏法の智慧を体得しようとされたのです。

民衆の幸福のために宗教があるはずなのに、その力を発揮できない、いやむしろ、宗教のために人間が利用されている状況があったからです。

そして、本格的に仏法を究めていこうとされたのです。

16歳で、清澄寺の道善房を師匠として出家されます。

この頃、「明星のような智慧の大宝珠」を受け取られます。仏の悟りの法であり、一切の事象を明らかに見ていける「妙法の智慧」を得たということです。

その後、比叡山をはじめ鎌倉、京都、奈良等の寺々をめぐり、あらゆる経典を読まれ、各宗派の教義の本質を究明されるのです。

そして、自身が悟った妙法とは、法華経の肝要である南無妙法蓮華経であり、一切経の中の根幹の教えである法華経をないがしろにする諸宗は、
人々の成仏の道を閉ざしてしまうと、結論されるのです。

どこまでも、民衆の幸福を第一に考え抜かれた結果です。「人間のための宗教」それが、日蓮仏法の出発点だということです。

真の人間主義は、民衆を苦しめる魔性との闘争でもあります。

建長五年1253年4月28日清澄寺で、念仏などを破折するとともに、南無妙法蓮華経こそが末法の世界中の民衆を救う唯一の法であると宣言されます(立宗宣言)。
この時、自ら「日蓮」と名乗られます。
32歳の時でした。

御書には、その直前の思索が回想されています。

「経文には、法華経を説き弘める者に必ず迫害の有る事が説かれている。一方で、正法を弘めなければ、人々の成仏の道を閉ざし無慈悲になる。どちらの道を選ぶべきか。
正法を弘めゆく道を選ぶべきだ」と。

ですが、思索はそこでとどまりません。

「難が起きた時に退いてしまうくらいなら、思いとどまったほうがよい。しかし、末法法華経を弘めることは困難極まりないと、はっきり経文に説かれている。どんな困難をも引き受けて人々の為に立ち上がるのが「仏の心」である」
と考え、不退転の誓願に立って、民衆救済の第一歩を踏み出されるのです。

私たちの幸福のために、あえて難をすすんで受けていこう、と決意されたのです。

そして、さっそく難が起こりました。

東条郷の地頭・東条景信は念仏の強信者でした。

彼は、念仏を批判した大聖人に危害を加えようとします。

そこで大聖人は、清澄寺を離れ、鎌倉に出られる事になるのです。

【立宗宣言】
全人類を救済する  
誓願の第一声

7. 信仰とは、境涯を変える事❣️【境涯革命】 「友の為の行動」 が自分を豊かにする。【教学】


【境涯革命】
「友の為の行動」が自分を豊かにする。

これまで十界論の話を聞いて、自分自身の生命を向上させていく重要性を学びました。

何か閉ざされていた生命が、ぐんぐんと広がっていくような感じがします。

十界論は、自身の境涯を変革していく指標ともなります。

例えば、地獄界は地下の牢獄に囚われているような境涯ですから、その時の自分の生命空間は限りなくゼロに等しいものです。

行き場のない憎しみや恨みを自分にぶつけるだけで、この環境を抜け出そうとするエネルギーもない。

餓鬼界・畜生界では、生命の活動範囲が、わずかながら広がっても、結局は、貪(むさぼり)や癡(おろか)の
生命に支配された不自由な境涯です。

修羅界は、何かとその状況を乗り越えようと努力を始めるのですが、自分のエネルギーは「他人に勝つ」事に向けられて、今度は嫉妬の炎に包まれています。

これに対して「自分に勝つ」第一歩が人界で有るとも言えます。

その努力の結果は天界でしょう。しかし、生老病死と言う人間の苦悩は解決出来ませんし、何よりも天界は長続きしません。

まるで風船がしぼんだり、ふくらんだりするようなものだと思います。

その繰り返しが六道というわけです。

もっと広々として、しかも永遠に崩れない生命の境涯を確立しようとしたのが仏法です。

私たちの信心の目的も、自分の境涯の変革を目指す「境涯革命」にあります。


大聖人は、
「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」(人のために灯火をともせば、自分の前も明るくなるようなものである)と。

根本は仏界の涌現です。
日々の唱題を繰り返し、実践することで、自分の生命境涯を広げていくことができます。それが私たちの仏道修行です。

どこまでも私たちの現実の九界を変えていく、ということです。

その究極は、人々の幸福のために、「あえて苦労を引き受けていく」「あえて苦悩を背負っていく」境涯です。

大聖人は、菩薩が人々を救うために、「十界互具を顕給い」と仰せです。十界の姿を、自在に演じるという事です。

そうすると、苦悩の意味が全く、変わってしまいますね。
六道の苦悩に右往左往していた人生と、十界を自由自在に生き切る人生との違い、ということです。

「境涯革命」のための信仰であり、それが日蓮大聖人の仏法の素晴らしさです。

そして、人類の境涯を高めよう、と挑戦する事が仏道修行の醍醐味です。

【境涯革命】
「友の為の行動」が自分を豊かにする。

6.心とは、生命そのもの❣️【十界互具】 現実の中で 価値創造の人生を【教学】


【十界互具】
現実の中で
価値創造の人生を

これまで、十界の各界について学びました。
どんな人の生命にも仏界があり、その仏界を顕していけるという十界論の考え方は、素晴らしい、と思います。

十界論は、仏法の基本です。

十界を一つ一つ学んで来た結果、仏界以外の九界は、かえって価値を見いだせないように感じてしまいます。

六道をぐるぐる繰り返すのも嫌だし、かといって二乗にもなりたくないし、菩薩といっても立派すぎて遠くに感じます。

だからといって、九界を否定したら、現実世界から離れてしまいます。

「九界にいながらにして、仏界を根本に、九界という現実を変革していく」考え方を説くのが法華経です。その前提となるのが「十界互具」の法理です。

この法理は、真理の全体像が示された法華経だけに見られる考え方で、法華経以外の経典には、まったく見られないのです。

互具(ごぐ)とは「互(たが)いに具(ぐ)す」との意味です。すなわち、十界のそれぞれに十界が具わっていることをいいます。

大聖人は「十界互具と申す事は十界の内に一界に余(よ)の九界を具し十界互に具すれば百法界なり」と仰せです。

十界それぞれに他の九界が具す、というのは難しいですね。

実は、すでにこれまで学んできたことで。例えば人界の生命も、次の瞬間に、他の九界の生命のどれかを涌現する可能性をもっています。とりわけ、私たち迷いの人間でも、だれもが、仏界を涌現できる可能性があります。このことが「十界互具」です。

そして、十界互具の最大の焦点は、九界のどんな人々の境涯にも仏界がある、ということです。例えば人を見下して、怒りをぶつけている人がいれば、その人の生命境涯は修羅界です。しかし、怒りには「悪への怒り」もあります。

人々を苦しめる権力者に対して怒りをぶつければ、それは大勢の人を守るための怒りとなります。

仏界を根本として境涯が変われば、怒りの意味も変わるということです。

欲望も、私たちを苦しめる欲望がある一方で、仏が全民衆を救いきろうと願うのは、ある意味では仏の次元の欲望とも言えます。

それぞれの九界の生命の状態にあっても、仏界を根本にしたときに、九界が九界のままで、価値を生み出す方向へと働きだすのです。

こうなると、少し九界の捉え方が今までと変わってきます。

九界とは、これまで見て来たように、私たち凡夫が生きる「現実」の世界です。

その現実を離れた成仏とは、観念であり、現実味の無い虚構(きよこう)にならざるをえません。

九界を全面否定して仏界に行くというのは、現実生活を離れることに等しいのです。そんな仏になるなら、結局は、現実逃避になってしまいます。

日蓮大聖人の仏法で説く「仏」は違います。仏は常に現実世界の中で、民衆を救済するために行動するのです。覚りの世界に安住して、戦わない観念的な仏など、決して真の仏ではありません。

成仏とは、仏界を涌現して、現実の九界を生きる中にあるのです。

つまり、どこまでも、現実生活を重視する生き方が、大事だということです。

仏界を涌現して、九界という「現実」を、より良く変えていく。

そのための私たちの信仰なのです。
    
【十界互具】

現実の中で
   価値創造の人生を

5.生命を貫く「慈愛」❣️【四聖】 仏道修行に、 よって境涯を高める。【教学】


【四聖】

仏道修行に、
よって境涯を高める 。

前回は、仏法の十界について、六つまで学んできました。

前回、見てきたように、仏法では「十界」といって、十の生命を説き、私たちの瞬間瞬間の生命の状態を説明しています。

ここまででは、日常生活のなかに主に見られる生命の境涯が、地獄界から天界までの「六道」の境涯で、それは外の条件などの環境によって左右されることを学びました。

その六道の苦悩を乗り越えていくのが「四聖」です。

十界の残り四つです。

「四聖」とは、声聞・縁覚・菩薩・仏です。

声聞・縁覚・菩薩は、悟りを求める仏道修行の実践者であり、「仏」は真の悟りを得た人です。

この四聖は、「六道」の生命境涯を越えて真実の幸福を目指し、人間としてより確かな生き方を求めていこうとの息吹に満ちています。

この四聖の境涯がそれぞれ、声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界です。

声聞界とは、仏の教えを聞いて、悟りの一端を得た境涯をいいます。

また、次の縁覚界は、さまざまな事象を縁として、自らの力で悟りの一端をつかんだ境涯です。

この声聞界と縁覚界を合わせて二乗とも言います。

二乗の特徴は「万物は無常である」と見ることにあります。無常とは、この世の中で「変化」しないものは何ひとつないということです。人間は、皆、年をとっていく。形あるものはすべて、時とともに朽ち果てていきます。

私たちもたまに、そうしたことを感じることがありますね。

日蓮大聖人は「無常を日夜見ていることは、人界に二乗界のある証拠ではないか」と仰せです。

しかし、二乗には限界があります。

低い悟りに安住して、仏の本当の悟りを求めようとは思わないのです。

また、自分の悟りだけにとらわれ、人を救おうとしません。

この二乗よりも、はるかに素晴らしい境涯が菩薩界です。

菩薩界の生命を貫いているのは「慈愛の念」です。

自分よりもまず、身近な一人ひとりに幸福になってほしいと願う思いやりがあるということです。

菩薩は、そのために仏の悟りを得ようと、努力に努力を重ねていきます。

慈悲というと、私たちから遠くなる感じがしますが。

本来、慈悲は誰にでもあります。

日蓮大聖人は、
「まったく他を顧みることのない悪人もなお、自分の妻子に対しては慈愛の念を持っている。そのことは、人界に具えている菩薩界の一分である」と仰せです。

この慈愛の念を、あらゆる人に向けるのが菩薩です。実際に、そういう立派な人は私たちの周囲にもいます。

大聖人は、
「六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ他人を重んじ悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念う者有り」と仰せです。

六道の普通の人の中にいて、自分も他人もともに幸福になっていこう、と絶えず願うのが菩薩の心です。

さあ、いよいよ最後の仏界です。

仏界は、仏が体現した尊極の境涯です。すなわち仏とは、宇宙と生命を貫く根源の真理を悟った人のことです。

仏はその悟りを根本に、あらゆる人を救い、自分と等しい悟りを得させるために戦い続けていきます。

より具体的に言えば、その根源の法則は慈悲に満ちており、自分も他者も、その法則と一体である、との生命の真実を悟った人が仏です。

したがって、「仏」は特定の一人に限るものではありません。

もともと、仏(仏陀)とは、「覚者」の意味で、生命の真実を悟った人のことです。

その仏と同じ生命境涯が万人にもある、と説いているのが仏法です。

いずれにしても「人を救う」ことが菩薩界・仏界のキーワードです。

その境涯が幸福の拡大につながります。

【四聖】

仏道修行に、
よって境涯を高める 。

4. 最高の境涯が側に有る❣️【六道】より「人間らしい生き方」 を目指して【教学】


「六道」より
「人間らしい生き方」を目指して

今回は、まず、「十界論」の説明を簡単にしておきましょう。

仏法の生命観の基本になります。

日蓮大聖人の仏法における「十界論」とは、私たちが現実のありのままの身に仏界を涌現した時に、どれだけ偉大な境涯変革を可能にするかを教えています。

また、十界の法理を学ぶことによって、生命の境涯を的確にとらえ、各人がそれぞれの生命境涯を変革していく指針を得ることができます。

私たちの瞬間瞬間の生命の「境涯」が十種類あることを説いたものです。

境涯とは、その人の心と力のおよぶ範囲のことです。

いわば、自分の生命空間の「さかい」を、どんどん広げていくことが仏法の目的です。

境涯が違えば、同じ現象を見ても、とらえ方、考え方が異なります。

例えば、美しい風景を見ても、自分が苦悩の淵に沈んでいれば、何も感じません。

反対に、この感動を人に伝えていこうと思える人もいます。

境涯を豊かにして、広げていく。
そのことで、何ものにも左右されない確固たる自分自身を築いていくことができます。

そのための信仰であり、宗教です。

「境涯」「心」は不可思議の力をもっています。

その人の生命を一新させ、人生観・社会観・生命観・宇宙観等を変えるのはもちろん、感受性を豊かにし、新しい自分をもたらす、その力を引き出すのが良き宗教です。

十界論では、そうした生命境涯が、十種類あると教えているのです。

仏法では、すべての人に共通する生命の境涯として、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の十の生命を説きます。

このうち、最高の境涯となるのが「仏界」です。

日蓮大聖人の仏法の「十界論」は、この「仏界」が誰にもあり、どんな時でも、それを開いていけることを教えています。

まず、最初の六つについて日蓮大聖人は、こう述べておられます。

「ある時は喜び、ある時は瞋り、ある時は平らかに、あの時は貪りの姿を現じ、ある時は癡を現じ、あの時は諂曲である。瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡は畜生、諂曲なのは修羅、喜ぶは天、平らかなのは人界である」

通解を交えながら、順番に見ていきましょう。

まず、「地獄界」(じごくかい)です。地の底の牢獄に入っているような、苦しみに縛られた最低の生命境涯です。「瞋り」(いかり)とは、やり場のない恨みの心です。どうすることもできない生命のうめき声が自分自身に向けられ、苦悩が永遠に続くように感じる「不自由」そのものの生命と言えます。

「餓鬼界」(がきかい)は、満たされることを知らず、欲望を追い続けている生命境涯です。「貪り」(むさぼり)とあるように、際限のない欲望に振り回され、欲望の奴隷になった苦しみが餓鬼界です。

「畜生界」は、目先の利害にとらわれ、正邪の判断がつかず、物事の道理に暗い苦悩の境涯です。結局は、破滅に至るゆえに「癡」(おろか)なのです。

自分と他人とを比べて、自分のほうが勝れていると思い込む慢心が「修羅界」です。「諂曲」(てんごく)とは、「心がへつらい、曲がって」いることです。自分も他人も、ありのままに正しく見ることができない生命境涯です。

ここまでの四つは、いずれも苦しみがつきまとい、あまり感じたくない境涯です。

そこから、向上しようとした第一歩が「人界」です。大聖人が「平らか」(たいらか)と仰せのように、穏やかで平静な、「人間らしい」境涯です。しかし、常に向上心がないと、この「人界」にとどまることはできません。

さらに「天界」は、欲求が満たされた時の喜びの境涯です。欲望には、本能的欲望や、社会的欲望、そして知的欲求などの精神的欲望など、さまざまあります。しかし、時が過ぎれば喜びは薄れていくように、この「天界」で感じる喜びは長続きしません。たちまち他の境涯に移り変わってしまうのです。

この地獄界から天界までの六つの境涯を「六道」といいます。

私たちの日常生活の大半は、この六道の境涯を繰り返しているといえます。

この六道に共通するのは、すべて自分の外の条件や環境に左右されているということです。

しかし、この日常生活を離れて幸福はありません。

この六道の苦悩の生活を、そのまま未来の希望へと転ずるのが仏法の力です。


「六道」より
「人間らしい生き方」を目指して

3. 万人の成仏。宇宙と生命を貫く❣️【仏界の涌現】 「万人を成仏させる ための御本尊」【教学】


学ぶ事で、
簡単に幸せになる。
不公平な世の中に、
さよなら。
悪い人達は、
こんな良い話を、
隠して来ました。


【仏界の涌現】
「万人を成仏させるための御本尊」


信心すれば、自分のなかにある、本来素晴らしい生命(仏の生命)を引き出すのが信心の目的であり、そのために御本尊がある、ということを先に習いました。


私たちが、自分自身の胸中にある「仏の生命」を涌現していくために、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の御本尊を御図顕されたのです。【仏の生命(仏界)涌現(=涌き現すこと)】


御図顕とは、現実に目に見える形で書き表したということです。



順番に説明しましょう。



まず、妙法とは、私たちの生命の根源の真理であり、また宇宙にある万物を貫く真理とも言えます。



いわば、宇宙と生命を貫く根源的法則です。



しかし、根源的真理であるといくら言っても、現実にその真理の力を、自分自身の生命に顕さなければ何にもなりません。



大聖人御自身が、根源の妙法を体得し、「仏の生命」を成就されたのです。



そして、万人の成仏のために、御自身の「仏の生命」を南無妙法蓮華経として顕されたのです。



それが御本尊です。



大聖人は御本尊について
日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ。日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」



御本尊とは、御本仏・日蓮大聖人の魂、つまり仏の生命そのものを顕した、明鏡と言えるのです。



大聖人の御生命とは、どんな生命を言うのでしょう。



一口で語ることは難しいのですが、一つの次元から言えば、生涯、民衆の幸福を願い続け、どんな迫害にも屈することなく、人間としての勝利者の姿を示された御生命とも言えるのではないでしょうか。



日蓮大聖人は、正しい仏法を弘めたために、横暴な権力によって、無実の罪で頸を斬られそうになったことがあります。その寸前、大聖人は、弟子に対して「これほどの喜びを笑いなさい」とさえも言われたのです。



そして、処刑の危機を乗り越えられた大聖人は、流罪地でも、絶望どころか、「日本で一番豊かな者である」と言われました。



心は一番豊かである、との思いで、御自身のことよりも全人類の救済を考えられたのです。



その心境はどんな悩みや迷いをも突き抜け、いかなる状況であれ、自分自身の信念に生き抜くのだ、という希望にあふれていたことでしょう。



その生命を大聖人御自身が書き表したのが、御本尊です。



御本尊によって、人々の「生き抜く力」を引き出していこう、とされたのです。



私たちは、御本尊に妙法を唱えることで、大聖人が顕されたのと同じ生命力を、自分の中から引き出していくことができるのです。



自分自身が、そのまま日蓮大聖人と顕れるという言葉もあります。



知り合いに、御本尊が今手元に無い、これでどうやって祈ることが出来るかと。



先にも話しましたが、御本尊は「仏の生命」を顕されたものです。



自身の「仏の生命」に呼びかけるように、お題目を唱えるのです。



声が出せない、状況の時は、心からお題目を送り続けるのです。



大聖人は、御本尊とは自身の「胸中の肉団」にあると仰せです。



自分のなかから「仏の生命」を引き出すのです。



「仏の生命」は誰もが本来、具えているのです。



御本尊は平等です。



どんな人も差別することはありません。



ただし、この御本尊の力を引き出すためには一つだけ条件があります。



「信心」です、信じる心です。
暗がりの部屋を想像してみてください。当然、何も見えないはずです。
電灯のスイッチを入れて、明るくしなければ、部屋のなかも、自分自身も見えません。この例えで言えば、電灯がいわば「御本尊」です。電灯に流れる電流が「信心」です。



どこまでも、仏界を涌現するための御本尊です。そのために、私たちの「信心」が不可欠だということです。



【仏界の涌現】
「万人を成仏させるためのご本尊」